ふれしゃかフェス - 北樹出版の大学教科書

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第5回「『ふれる社会学』×『よい移民』刊行記念:差別のカジュアルさにふれる」

栢木清吾×稲津秀樹×ケイン樹里安 2019.12.14(土)@汽水空港(鳥取・松崎)

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この日は『ふれる社会学』トークイベント第5回目、そして記念すべき初のコラボ、『よい移民:現代イギリスを生きる21人の物語』(ニケシュ・シュクラ編、栢木清吾訳)とのトークイベントでした。『よい移民』翻訳者でもあり、『ふれる社会学』「差別感情にふれる」の執筆者の栢木清吾先生と、「『魂』にふれる」の稲津秀樹先生、編者のケイン樹里安先生により、満員御礼の中、熱いトークが繰り広げられました! そして、フロアからはお話の流れの中で積極的な発言や問題提起を頂き、対話形式も交えつつ話題も広がっていきました。気づけばなんと3時間超えのイベントに! これまでの最長イベントとなりました。
なお、実際のフェス中はみなさん「ですます調」で話されておられましたが、「レポート」の性質上、細かな言い回しはカットしたり、内容も圧縮させて頂いたりしております。それでは、どうぞお読みくださいませ!!


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~『ふれる社会学』『よい移民』刊行の成り立ちにふれる~

◆ケイン先生

講義で理論の話をすると学生さんたちが眠くなってしまう。身のまわりのことを考えられる社会学のテキストをつくろうと思った。カバーデザインにある英語trace the outline of societyのように社会の輪郭をなぞり返すようなテキストを目指した。


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◆栢木先生

『よい移民』はイギリスで移民2世、3世によるエッセイ集。書き手はすべて、Black(黒人)、Asian(アジア系)、Minority Ethnic(エスニック・マイノリティ)の頭文字をとってBAMEと呼ばれる人びと。言い換えると「有色系」の移民の子孫たち。小説家、ジャーナリスト、詩人、俳優などとしてイギリスで暮らしているなかで直面する人種差別や、投げかけられる偏見やステレオタイプなどについて、批判的かつユーモラスに書いている。『よい移民』はイギリスで8万部のヒットだった。


~今夜のテーマ「差別のカジュアルさにふれる」について~

◆稲津先生

本日のテーマ「差別のカジュアルさにふれる」の「ふれる」とは何か。『ふれる社会学』は、その行為の意味について考えさせられるテキストだ。日々の暮らしの中で、ふれたくないものにもふれてしまう瞬間、あるいは、ふれているのに言語化するのに困ってしまう瞬間がある。その顕著な例が、差別ではないだろうか。
社会運動や政治運動が是正を目指すような、大きな構造的差別が、この世の中にはある。他方、法律の世界では、近年、外国人や障害者、ひいては被差別部落の差別解消法が(罰則のない理念法に留まるが)制定されるなど、一見、差別は是正されているような印象もある。
ここで話してみたいのは、そうした大きなところで展開する「差別の話」を横目にみつつも、私たちが身近なところで日頃から経験している差別(ともつかない差別)についてだ。
例えば、ネットを何気なく見ているだけで飛び込んでくる(ふれさせられる)外国人をめぐるデマ、性的なイメージ、特定地域への偏見、一見、「正論」のように思える政治家やタレントの言動、ニュースのネットコメント欄で行われる「論破」に感じる得も言われぬ違和感。そんな身近でカジュアルな、ほっとする(はずの)領域に忍び込む現代的な差別のことを考えたい。

◆ケイン先生

今まで存分に書かれてこなかった「生きづらさ」。自分は学生の時、スーパーでバイトをしていた。その時、自分は荷出し、女性はレジだった。女性のバイトの人がいない時、レジを担当したことがあったが、「むさくるしいスーパーだなぁ」と言われた。また問題があった時、男性社員が、女性がいないところで「男と女とでは考え方が違うからな」などと言いながら、女性を悪く言うことで男性同士の仲間確認をされることもあった。
本書ではジェンダー/セクシュアルマイノリティ、ハーフ、学校、障害についての章のほかにも観光、スニーカーにも人種の話も織り込んでいる。まどろっこしい話にこそ、光を当ててみたかった。ふれてきたのに、ふれていないと思おうとしてきた。そういうことにこそ、問題がギュッとつまっているのではないか。一人だとしんどいけれど、みんなで考えたら新しい一歩になるかも、という思いで本書を編んだ。

◆稲津先生

差別の可能性について指摘する際にも、「あなたは考えすぎではないか」と言われて梯子外しにあうことがしばしばある。身近な飲み会の席でも「奥さん」という表現をする方がいて、その表現には批判があることを指摘すると、「自身は差別する意図で言ったのではない」と返され、違和感を抱くことがある。


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◆栢木先生

差別を考える際に気を付けなくてはならないことは、すべてを個々人の人格の問題に還元してしまわないこと。当人は無意識で人を傷つけている場合も多い。差別的な言葉が社会のなかで流通していて、個々人が使用できる状態にあることが問題である。
同時に、ある言葉を発することができる、ということには社会的な格差がある。たとえば男性が女性の容姿について公の場でコメントしているとき、肯定的に言うか、否定的に言うか以前に、そういう話題を当人に投げかけていい立場に自分はいると無意識に思えていることが問題。何か評価するようなことを言うのは、優越意識、特権意識があるということ。個人を責めるだけではなく、社会構造の問題としてひらいていくことが大切。

◆ケイン先生

明らかな差別は問題にしやすい。無意識に行ってしまうものが厄介。そして、誰かにとってそこにしんどいものがある時、無意識でいられる人がマジョリティの特権である。誰もがやりがちで、絡めとられる仕組みがあるということに気づくことが大事である。それらはあらゆるところに存在するし、テーマと事例が違えば誰でも差別をしてしまう可能性がある。

◆栢木先生

ある大学で担当している授業では履修者の85%くらいが男子学生。その授業でほぼ毎年『イラン式料理本』というドキュメンタリー映画を見せる。その映画は女性が家庭で料理をする様子を淡々と撮影したものだが、ずっと見ていると、イランにおける男尊女卑、家事労働をめぐるジェンダー格差が描かれていることがわかる。だが、学生たちに「何の問題を扱っているか」と質問すると、多くはジェンダーの問題だと理解するが、全くそういう問題に気がついていない学生が一定数いる。一方、そうした問題に気づいている学生に、「では、あなたは料理ができるか?」と聞くと、否定的な回答しかない。「しなくていい」という特権をもっている人間は、問題に気がついてもその特権を手放そうとしない。


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◆ケイン先生

ラグビー選手等の帰化のニュースには、歓迎のムードがある。大坂なおみもグランドスラムで優勝した時、日本人に見えない/日本人として誇らしい、という両方の反応があったものの、日本国籍を取得した際、歓迎された。大坂選手自身も、今までは応援は家族や周りの身近な人々のみであったのに、勝ち続けると応援に日の丸が増えていった、と話していた。
とはいえ、大坂選手が政治家になりたい、と言ったらどうなるか・・・。歓迎するのだろうか・・・。つまり大坂なおみをジャッジする人がいる、ということである。

◆栢木先生

ソウル五輪の時に陸上男子100メートルで金メダルを獲り、その後ドーピングが発覚してメダルを剥奪されたベン・ジョンソンの例が参考になるかもしれない。彼はジャマイカで生まれ、10代でカナダに移民している。最初新聞等では「ジャマイカ人」という記載された。成績が良くなるに従って「ジャマイカ系カナダ人」と呼ばれだし、金メダルを獲った直後は単に「カナダ人」と呼ばれた。だが、メダルが剥奪されると再び「ジャマイカ系カナダ人」という表現に戻った。

◆稲津先生

10年ほど前の話だが、修士論文でペルー国籍者による、ある殺人事件をめぐる新聞報道の通時的な検証を行ったことがある。そこでは「日系ペルー人」から「ペルー人」へとメディアでの名指され方が変わっていった。日系人の受け入れは「日本人」との(フィクショナルな)連続性の下に行われたことだが、犯罪を起こすと、日本人との連続性ではなく、その外国人性が強調されることで、「日本人」との断絶が表象されるようになっていた。



質疑応答という形ではなく、ここから参加者の方々が体験を語ってくださったり、問題提起を行ってくださったりしました。

◆参加者の方

差別者になりたくないと思ったが、とかく生きづらい。子どもの頃、身体的にハンディキャップをもった障害児がクラスにやってきた。フォークダンスの時、みんなが嫌がったので自分が一緒に踊った。それに対し先生が褒めたので、みんなも関わろうとするようになった。一時みんなから積極的な関わりがあったものの、子どもたちはすぐに飽きてしまい、障害児はまたすぐに一人ぼっちになってしまった。まもなくその子は農業用水に落ちて亡くなってしまった。自分は、その子がたくさん人が集まってきて関わってくれたのに、やがてさーっと引いてしまったことに絶望してしまい、そのことが死に関わっていたのではないかと感じた。辛くなって先生に相談すると、「忘れなさい」と言われた。子どもの頃のこの事件が心に引っかかっており、未だ処理できない。

◆栢木先生

差別は社会的な問題である。自分は差別の外にいる、と思わないことが大切。正義の人/悪い人、と完全に二分はできない。差別感情をどう捨てていくか。それはある意味自分の心の一部になってしまっているので、捨てるのはしんどいし、完全に捨てることはできない。例えばジョージ・オーウェルは、労働者の生活を知りたいと思い、一緒に働いたのだが、彼らとの差異を感じてしまい、たとえば労働者を臭いと思ってしまい、そう思ってしまう自分に絶望した、という話がある。自分が培ってきたものを否定することになるのはしんどいことである。しかし、差別を受けている人たちのしんどさはその比ではない。
また、誰の中にも醜悪な差別がある、と思わないといけない。差別を受けている人たちも、別なことでは差別をしているかもしれない。だが、だからと言って助けなくてよい、ということではない。世界は勧善懲悪ではないし、犠牲者を聖人のように扱ってはならない。

◆ケイン先生

先生の「忘れなさい」という言葉は、本当は本質に気づいてしまっているのではないか。学校は安全なスペースであるはずなのに、手を差し伸べるあなたはえらい、ということにより、上下の構造をつくってしまった。その人の機能不全(インペアメント/ディスアビリティ)は、社会の機能不全により能力を奪われている、という面もある。
その時、インペアメント/ディスアビリティということを知っていたならば、褒め方や言い方も違っていただろうし、そしてそもそも障害児が参加する授業の時に障害児が身体的に参加しづらいフォークダンスを選択しなかったのではないか。
障害児、外国ルーツの子どものしんどさは、その子がダメだから、と思うことである。それは罠なのである。また、言い方を少し変えることの積み重ねでしんどさが軽減されるのではないか。

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◆参加者の方

NPO活動の表彰式に参加した際、点字の翻訳活動をされている方が受賞していた。常々、障害者と性の問題が十分に議論されていないのではないかと思っていたので、点字でのアダルト小説の翻訳はどうなっているのか、と質問したところ、怪訝な顔をされてしまった。調べた範囲では、アダルト小説等の利用度は点字翻訳での上位だったこともあり、障害者を聖人化しているところがあるのではないかと思った。これについてどう思うか。

◆栢木先生

社会的弱者に清廉潔白さを期待してしまうところが社会にはある。いつのころからか、ハリウッド映画でベテラン刑事、大統領、なにかのチームのリーダーに黒人を配役することが流行になった。もちろん過去の差別的な描写に対する是正の意味もあろうが、過剰に知性や良心の象徴に「黒さ」を使うのも、差別と一続きの問題ではないか。

◆ケイン先生

障害者は常に愛らしく振舞うよう役割を押し付けられている。それはLGBT、意味にも当てはまる。例えばメディアに登場する、「明るいゲイ」。コミュ力があり、良いことを言う、教えてくれる存在を求められる。
また、大坂なおみもいつも無理やり日本語でコメントを求められ片言の日本語で話しているが、それも彼女の片言の日本語に少女性を過剰に見出そうとしているのではないか。すごいアスリートなのに片言の日本語を話させ、飼いならそうとしているのではないだろうか。

◆栢木先生

むかし母、叔母が祖父の介護していたとき、赤ちゃん言葉を使って話すのを注意したことがある。誰かを助けようとする時、上から目線を取ってしまう。それを指摘したところ、本人たちは気づいていなかった。それは医者と患者の関係にも見られることでもある。患者にいつも従順さを期待することは権力意識のあらわれ。

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◆参加者の方

障害者がつくるアートはとてもカラフルだったり、一度聞いた曲をコピーできたりする人もいる。障害者の方が優れた能力をもっている、という人もいる。私たちは自分より優れている人を異質と思ってしまい、障害者と呼ぶのではないか?

◆稲津先生

いわゆる地域づくりのなかでもテンプレート化されていく表現があると感じている。例えば、都市部の匿名性に対して、地方は「その人」が浮かびあがる地域だから、すばらしいとか(あとは、「地方の人は暖かいから差別をしない」とか)。地方語りをめぐる顕名性をはじめとする様々な表現も、こうした文脈の下に考えなおす必要があるだろう。

◆栢木先生

『アイデンティティが人を殺す』(ちくま学芸文庫)に、人はさまざまな属性をもち多様なのに、人からなにかを言われたといった心の傷が積み重なり、ある属性に凝り固まってしまうという問題が書かれている。人は人とのかかわりの中で出来上がっていくもの、その人がどのように生きてきたか、その人の向こうに時代や環境がみえる。

◆ケイン先生

外国にルーツをもつ人とその周りの人々のメディア、Hafu Talkを運営しているが、語ってくれた人たちの中で、黒い肌を持つ学生さんは、その時々の黒人の有名人、例えばボルトやオバマといったあだ名を付けられてきた、と言っていた。また、『ガキ使』(ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!)で浜田がエディ・マーフィーに扮したのを見てとても嫌だった。でも、友達が炎上したけど面白かった、と言っていたのに対し、不快に思ったものの、友人関係を考えると面白くなかったと言うことができなかった。このように、身近な人にこそ傷つけられがちである。
また自分自身にも気づけていなかったことがある。それはフィリピン人のハーフの人が語った話。いつも職務質問をされ、靴に麻薬を仕込んでいないか、靴を脱がされ調べられ、とてもしんどい思いをしている。こういったことは新聞やテレビではなかなか取り上げられない。Hafu Talkは自分と似ている経験、違う経験を見てほしい、と思って運営している。『ふれる社会学』をつくったのも同じ目的。そしてイベントやメディアに出ているのも、お土産をどれだけ手渡せるか、しんどい思いをしている人たちの資源になれば、と思っている。

◆森さん(汽水空港)

都会であれ、田舎であれ無数の賢者に囲まれていたいと思い汽水空港をやっている。自分も変わっていきたい。また、この土地は子どもの時からずっと同じ人間関係で過ごしていらっしゃる方が多い。そのため、子どもの時から関係性が固まっているところもある。そのため、海水と淡水がまじりあうような、そういった関係が揺らぐ、いろいろなものが混じりあう場所になればと思い名前も汽水空港とした。
『よい移民』で書かれていたテンプレ、自分もやってきたのではないかと思い、ドキドキした。

◆栢木先生

『よい移民』のなかに、子どもたちに物語を書かせる、というものがある。浅黒い肌をした移民の子どもたちも白人の主人公を書いてしまう。今までの物語に有色の主人公がでてくる物語を読んだことがないから、多様な主人公を書こうといってもなかなかできない。自分たちと同じ容姿をもつ人々を描いてよいと思っていない。だが時間をかけて「そのように描いていいのだ」と教えていくうちに、自分たちに似たキャラクターをポジティブに語れるようになる。
日本でも移民が増えているにもかかわらず、多様な絵本や書物がない。早く取り組まなくてはならない問題である。

◆参加者の方

学校現場では現在、いわゆるニューカマーの生徒も入ってくる中、現場の教員たちがどのようにすれば「気づき」を得てもらえるかを考えている。私も含めた上の世代の教員は、在日コリアンの児童生徒の教育について考えるときも、「日本名をもち、日本語を普通に話せるので問題ない」という学校教育現場のスタンスにショックを受けて、在日朝鮮人教育の活動に取り組んできた。
朝鮮学校の美術展の開催に一市民として携わっているが、生徒さんの絵が素晴らしい。なぜ良い絵が描けるのかといえば、「ああしろ、こうしろ」といった指示が教員からなされないからだ。どうしてこういう絵を描いたの?と問うと、そこには物語が紡がれている。
日本社会での差別と被差別の関係を考えるにあたって、当事者の自尊感情をはぐくむことに力点を置いてきた。それはそれで正しいことではあるのだが、自尊感情の押し付けがテンプレになっているのではないかと思うし、その意味で、マジョリティが思い描くマイノリティのこうあるべき姿、というのは壊していくべきなのかもしれない。

◆ケイン先生

それは自己肯定感をもつことが主体的に選ぶのではなく、先回りされているのが問題なのかもしれない。
大型書店で多く並んでいるのは、自己啓発本、ヘイト本である。自己啓発本では、例えば大好きなことを仕事にするには、続けることが大切だという。だが、失敗したら自分のせい、自己責任なのか? 原因は家庭環境やいかなる属性をもっているかも大いに関わってくる。自己肯定感が大切なのはよくわかるが、もて、というのではなく、それをもてる環境を整備しなくてはならない。
そして社会のしくみの問題を名づけていく(人種化やジェンダーといったように)。主体的であれ、というおまじないはもういらない。しんどくなった時の処方箋、手立てが必要なのだ。マイノリティの問題はマジョリティの問題でもある。例えば、移民と言わず、外国人人材というのも「人材」とモノとして扱っている、都合の良いものとして扱っている証左でもある。

◆ケイン先生

Q:参加者の方

『ジョーカー』を見て綺麗な映画だと思った。どのように観たか?

◆ケイン先生

マジョリティに理解できてしまう、そして絶賛されている『ジョーカー』、飼いならされてしまっており、まずいと思った。
例えば白人系ハーフはマジョリティである。『ふれる社会学』では中国人ハーフ女性の経験が描かれているが、自分の経験と全く違うものだった。マイノリティがさらにマイノリティ(例:黒人シングルマザー等)を飼いならそうとする、という現象は起こるので気を付けなくてはならない。
『ジョーカー』はマジョリティが自分を棚上げして、あんなにかわいそうだったら仕方ないよね、マジョリティでもマイノリティ理解できる、という態度が怖い。

◆栢木先生

ある先生が授業で学生たちに『ライフ・イズ・ビューティフル』と『戦場のピアニスト』を見せ、どちらの映画が好みだったかと学生に感想を聞いていた。『ライフ・イズ・ビューティフル』のほうが観ていてしんどかった、喜劇にしていいのか、との疑問を持ったというコメントが多くて驚いた。一方、『戦場のピアニスト』はリアルでよかったという感想。では、悲劇にしてよいのか?、という質問を投げかけるときょとんとされた。笑いにするのが不謹慎だというが、美化することにも問題はないのか?悲劇も喜劇もあるドラマ形式に落とし込む、つまり、理解しやすく処理する方法。
他方、『ジョーカー』は架空の街の話という設定にしてあるので、観客にとって近すぎないから、適度に現実逃避しながら見られるところがよくできている。あまりにも身近だと、観ていてしんどい。『よい移民』も、日本の読者にとっては遠い国の話に思えるかもしれない。翻訳書の利点は、いったん遠くへ逃がれて、フラットな気持ちで問題を再発見できるところで、そしてその地点から自分の問題を眺め直す機会が得られるところではないか。

◆ケイン先生

好きなものにはまりこむ、という行為さえも実は社会に絡めとられている。
差別は安易に乗り越えられるものではないが、新たなかかわりが可能性を生むのではないだろうか。



以上、第5回ふれしゃかレポートでした! レポートもいつもより長くなりましたが、実際はさらに熱気あるイベントとなりました。イベント後も、個々に登壇者の先生方にお声をかけられる参加者の方々の姿が印象的でした。
本日のキーワードは「無意識の中の差別」「マジョリティの特権」「マジョリティとは、気付かずにいられる人」でした! ご参加の皆様に少しずつでも個々の「お土産」をもって帰って頂けていますように・・・。

ふれしゃかフェス@汽水空港9


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ふれしゃかフェス第3回(ジュンク堂難波店)のレポートはこちら→ふれしゃかフェス第3回

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