ふれしゃかフェス - 北樹出版の大学教科書

北樹出版の大学教科書

ふれしゃかフェスレポート!

11/16(土)@ジュンク堂難波店

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この日は『ふれる社会学』トークイベント第3回目。記念すべき初の大阪開催。編者のケイン樹里安先生・上原健太郎先生に、八木寛之先生・栢木清吾先生が加わり、満員御礼立ち見の中、熱いトークが繰り広げられました! そして司会はジュンク堂難波店のカリスマ店長福嶋聡さんでした(本当にありがとうございました!)。
なお、実際のフェス中はみなさん「ですます調」で話されておられましたが、「レポート」の性質上、細かな言い回しはカットしたり、内容も圧縮させて頂いたりしております。それでは、どうぞお読みくださいませ!!


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~『ふれる社会学』がふれる境界~

◆福嶋店長

『ふれる社会学』の帯についている「どこから社会、どこまで社会」に注目してしまう。一体どこまでが社会学の範囲、「境界」はどこなのでしょう?
・・・という問いかけにより、トークはスタートしました! そしてどのような思いで本書をつくったのか、担当章を執筆されたのか、先生方からの『ふれる社会学』のご紹介がありました。

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◆ケイン先生

「スマホや飯テロなど、好きなものも嫌いなものも含めて、社会に「させられている」部分があるよね、ということに注目して本書をつくった。

◆上原先生

『ふれる社会学』は入り口を用意する入門書。概念説明を先にすると学生さんたちが眠くなってしまうので、本書のはじめの部分は身近で具体的な話題を配置し、最後に社会学の古典的な理論を掲載した。また、大学の外の方々にも届けたいという思いで本書をつくった。

◆八木先生

観光にふれる」という章を執筆した。もともと観光の研究がしたかったというよりも、街歩きが好きだった。研究のフィールワークをしている新世界は、大阪らしいといわれる場所であるが、私が子どもだった頃はまわりの大人から「近づいてはいけない場所」ともいわれたりしていた。しかし、こうした場所のイメージはメディアの影響が大きく(私も大阪出身だが調査をするまでは新世界に行ったことがなかった)、フィールドワークをしていくと、住民の方々の中にはメディアで描かれるその土地のイメージに違和感をもっている方もいらっしゃることがわかった。一方で、商店街や地域の人のなかには、そうしたイメージをうまく利用し、観光地化を図っていこうとする動きもあった。そうした時期に、自分はフィールドワークをはじめた。

◆栢木先生

今日のイベントのタイトルは「境界にふれる」。本書では社会学の分野のなかでもまだしっかりと確立されていない対象を多く取り上げている。あるいは他の学術分野と交差するテーマを扱っている。その意味で、本書自体が境界にふれている、といえるかもしれない。
今回自分が書いたのは「差別感情にふれる」という章。社会学の教科書としては問題かもしれないが、できるだけ概念や理論を使わないで、文体と語りのみで説明することを目指した。「差別」というと特定の人たちの問題、自分とは距離があるもののように思えてしまう。差別はいけないよね、ということを伝えるのではなく、差別は自分の中にも潜む、自分の問題であると気づいてもらえる章にした。
たとえばヨーロッパ留学から帰ってきた学生が、帰国後、あちらで「ニーハオ」と声かけられて嫌だった、というようなことをよく言う。なにか侮蔑されたかのような気分になって憤っている。そう声をかけた人間に、「アジア系」に対する侮蔑や嘲笑があったなら、それはそれで批判しなければならない。ただ同時に「中国人」に間違われたことに気分を害しているのならば、自分のなかに中国に対して何か差別的な意識が、「かれらと自分のちがいをはっきりさせたい」という意識が潜んでいるのではないか、と自問自答する必要がある。たとえば、「チャオ」と言われときも「私はイタリア人ではない」と怒ったのだろうか?

◆ケイン先生

栢木先生、八木先生の話はまさに「境界」についての話。差別も「ダメだよねー」と言うことは自分を安全な場所に置いておいて、「差別している人」から境界線を引くことである。でも私たちはみんな社会の仕組み巻き込まれているし、自分も差別してしまっている瞬間があるはず。なぜなら、思い込みや偏見等にすでに巻き込まれているから。
先ほどのお話にもあった、ザ・大阪、ディープな大阪のイメージ、それらのイメージがどのように作られてきたのか、利用してきた人たち、嫌がっている人たちがいる。私たちは何かの境界線を引いて、ふれ続けているのだが、ふれているのに気づかないふりをしている。


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~「社会人」にふれる~

◆栢木先生

「社会」という言葉はふわっとしている。「社会人になったら」という言い方があるが、学生でバイトしている状態でも社会にすでに組み込まれている。でも、まだ社会人になっていないような気分でいられるのはどうしてなのか?

◆上原先生

「就活にふれる」を執筆したが、自分がまず就活に違和感をもっていた。「3月31日から4月1日」といった1日を境にして、「社会人」と言われるのはなぜか? また、就活では本当の自分は?という問いを突き付けられ続け、悩んでしまう。でも、悩んでいる自分も本当の自分である、と受け止めてほしい。
新卒で就活するという習慣があるのは日本や韓国くらいであるのに、それに翻弄される学生さんたち。自分も就活というしくみに疑問をもっているはずなのに、内定をもらったという学生さんたちの報告を聞くと嬉しくなる。つまり自分も仕組みに飲み込まれているといえる。仕組みからはじかれた人たちはどうしているのか、想像しなくてはならない。
また、日本でも沖縄は新卒採用の仕組みはあまり浸透していない。20代はいろいろなことに携わってみて30代くらいで定着するイメージである。このように、場所を変えると多様な生き方が見えてくる。

◆栢木先生

どのようなかたちであれ、みな社会の一員として包摂されている、という感覚が重要。就活ゲームの仕組みにのらずとも、働くことも、社会参画することも可能なのだが、学生の目線からは、そういう選択肢がなかなか想像しにくいことになっている。
金南先生執筆の「『外国につながる子ども』にふれる」では、日本の学校教育のなかの、同質性や同調性を押し付ける一斉共同体主義を問題にしているが、これが今では大学まで続いている。1年生からみんなでキャリア教育を受け、3年生からみんな就活、という流れがつくられている。

◆ケイン先生

文系学問は役に立たないといわれる。果たしてそうだろうか? 文系の知識をもっていることで、悩んでいる誰かに、それはあなたのせいではないというメッセージを送ることができる。
学生さんと話をしていると、よさこいをしていること、留学したこと、ボランティアさえも就活の資源としてみている。例えばラクロス部に入った学生さんがラクロス部に入った理由はラクロスがマイナーなスポーツだから就活に有利だと思ったから、と言っていた。自分の好きなものですら就活に結び付ける。就活で自己アピールを強いられ、そして就職試験に落ちまくる、そして就活うつになる。これは自分だけのせいなのか? このしくみを考えるのが文系学問の役目であるのではないか。

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◆八木先生

同じように障害の問題も個人の問題なのか?社会の問題なのか?と考えることができる。「『障害』にふれる」の章にあるように、社会の方が調整すれば障害ではなくなる、ということもある。
卒論で「自分探し」をテーマにした学生がいて、新聞で自分探しについて書かれた記事を調べると、1980年代に女性の自分さがしについての記事が登場しはじめ、1990年代から00年代は就活氷河期を背景に、就職ができずバックパッカー等を行うといった自分探しを扱う記事が急増した。しかし2010年代以降は少なくなった。自分探しが記事に登場しなくなったのは、ブームが去ったというよりも、自分探しがあたり前になってきたからではないかというのが卒論の結論だった。

◆栢木先生

昨今「社会が悪い」と言いにくくなった。ここに生きづらさがあるのではないか。最初は「社会が悪い」という漠然という認識でよい。それが分析や議論のスタートになり、ではどこが悪いか、どうすればもう少しましになるのか、と話がつづくはず。「社会が悪い」という発言を封じられてしまうと何も批判できず、結局、「自分が悪い」という自己責任論にはめられてしまう。
ユニバーサルデザインは、障害にある人にだけ便利なのではなく、あらゆる人にとって便利なデザインを考えようという発想。たとえば、移民にとって生きやすい社会は、どの市民にとっても生きやすいはず。そのような社会デザインを構想するために必要な知識を蓄積する、そういうのも人文科学の有用性だといえる。

◆上原先生

「今あるしくみが良いと思っている人もいる。例えば、女らしさ、男らしさをおう歌している人たち。そういった人たちはジェンダーの話をすると自分が否定されたと思い反発したりする。

◆ケイン先生

そういった人たちは、就活やリア充など楽しめているうちはよいけれど、しんどくなってきたときに人文社会科学の知を思い出してほしい。呼び水のように、別の道があるよ、という提示ができるのが学問なのだと思う。

◆八木先生

まちづくりのシンポジウムの話。アニメの聖地など、一見観光資源がないような普通の場所にファンが集まってくる、昨今そこから町おこしが始まる。そのシンポジウムに登壇した町おこしの担当者は「ノリでやっています」と言っていた。以前は町おこしといえば、税金でアーケードを作ったりしてきたが、現在は自分たちで経済回していこう、という風潮がある。まちづくりとネオリベラリズムは親和性が高い。一方で失敗すると自己責任といわれてしまう。そうではないまちづくりがあるのか。

◆ケイン先生

無我夢中のときにも社会学の感覚はもっていてほしい。なぜならば、身近な人にこそ、辛辣にふるまったり、社会のしくみから逃れられずつらい言葉を投げかけてしまったりしがち(就活の時や男らしさ、女らしさなど、〇〇らしさについて)。身近だからこそ傷つけているかもしれない。それが罠である。半歩ずれたことから見てみませんか?ということが大切なのでは。半歩ずれたところの社会を知っておくのが大切。社会学の役割として、こういう言い方もあるよ、という代替案が示せるようにするとよいのではないか。

◆栢木先生

自分がアイデンティティの一部と思っているものや、自分のうちにある素朴な感情と思っているものも、社会のなかで形成されたものでもあるという認識が重要。たとえば、現代社会では多くの人間は、実際に恋愛する前に、マンガやドラマを通して恋愛にまつわる願望や、対人関係上の相手に求めることなどを学ぶ。自然にうちから出てくるものではない。だから時代によって埋め込まれた「社会的なもの」が異なる、という認識が必要。世代や地域性等でずれがあるのは当然で、それは必ずしも人格の差ではなく、育った「社会」が違うから。

◆ケイン先生

世代のずれは、講義で学生さんたちにスマホで検索してもらったときに感じる。検索結果がそれぞれ異なっている。今までの履歴をもとにしたパーソナライゼーションやフィルターバブルといった、自分の好む情報ばかりを収集して見せてくる仕組みによって、違う「現実」が見えている。テレビ、映画、ラジオは見なければよいけれどスマホは捨てられない。そしてスマホにはすべて連絡先が入っているなど、生活に必要なもの。そのスマホから見えている世界には色眼鏡がかかっている。この「色眼鏡」のこわいところは、色が見えないこと。これこそが罠である。みんながテレビを見ていた、新聞を見ていた、という以前の世界とは違い、ややこしい。ずれをチューニングする、認識するのがこういったイベント(ふれしゃかフェスなどの書店イベント)が有用だと思う。

◆栢木先生

現在メディアが個別化を促進している側面は面白い研究テーマかもしれない。初期のメディア論では、人々を同期する、つまり一体化することについて主に関心を向けていた。同じ国民であるという意識が同じ時間に同じ新聞を読むことで培われるとか、テレビの浸透によって地方の方言が薄まるといった研究がある。社会学は、新しいメディアの出現で人びとの感覚やふるまいがどう変わるのか、というのも社会学のテーマ。たとえばジンメルは、鉄道ができた頃、乗客同士が近くにいるのにおとなしく座っている現象の新しさについて書いた。

◆ケイン先生

TicTokの自己紹介ではお題が出て、yes,noを言っていく。設問にハーフという言葉がたくさん出てくる。ハーフと聞くと1970年代くらいから西欧白人系のイメージ。テレビ見ない世代もハーフというと白人のイメージをもっている。差別がふわっと再生産されている。このもやもやしたものを名づけていかなくては、と思う。

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~質疑応答~

Q:在野で社会学をするにはどうすればよいか?

A:▼栢木先生

社会について語り合える場をつくる、という意味であれば、SNS上でもリアルな空間でも、敷居を低くするものをどれくらい用意できるかが重要だろう。こういうイベントはそのきっかけになる。在野で研究する、という意味であれば、荒木優太さんの『在野研究ビギナーズ』をぜひ。


Q:ハーフでムスリムの方から。いろいろと発信はしているが、ステレオタイプをもっている人々からのバッシングがつらくなるときがある。どうやって対処していけばよいのか。

A:▼ケイン先生

自分も論文や本以外にも、WEBサイトをつくったり、マスメディアに出ることでバッシングされたりしてきた。そんな時だからこそ、違う角度から見たり、違うやり方を行ったり、しんどい時は休むのも大切。そのあたりが難しいんだけど(笑)クレーリーは「眠れ」と言っている。当事者としての発信がしんどいときには、しっかり休息することが必要なのだと思う。

A:▼栢木先生

当事者という言葉はマジックワードで当事者の発言力を高めるのだが、責任をもつ関係者を限定する面もある。たとえば法律関係の事柄で、「当事者間で話し合う」などといった場合は、関係者を限定する、つまり「私は関係ない」といえる人を増やすことになる。なので、当事者という言葉にとらわれると、つらくなるかもしれない。当事者という立場から逃げることも大事。

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Q:大人と子どもの意識の差、境界はあるはずなのにあいまい。グレーゾーンが広い。大人と子どもの境界はどこだと思うか?

A:▼栢木先生

たぶん卑怯な答え方になるが(笑)、「大人」と「子ども」の区分は社会でつくられるもの。フィリップ・アリエスが『子供の誕生』という本で書いているが、中世ヨーロッパには「子供」という概念がなかった。現在は「大人」にならないよう、「子供」である期間を延長するよう社会が要請しているところがある。たとえばベンジャミン・バーバーは消費社会が「幼稚化」を促すと言っている。法律と選挙では、大人と子どもの境界は異なる。なので、シーンによるのではないか。

A:▼上原先生

どこに境界線を認めるのかについては状況依存的ではあるが、社会的カテゴリーとしては学校を卒業してからなのでは。

A:▼八木先生

ジェンダーの差もあるのでは。

A:▼栢木先生

もしあなたが「子ども扱い」されることに違和感や不満を覚えているならば、それはそれで考える必要がある。相手はあなたを「子ども」として設定することで従属的な立場に置いたり、飼いならそうとしているわけなので、そうはされないぞ、と反抗したほうがいい。



駆け足ですが第3回フェスレポートでした! 今回はジュンク堂書店難波店店長福嶋さんの司会を頂き、鋭いご指摘も有難うございました! また会場が通りがかりにふらっと立ち寄れる会場だったため、多くの方々にご参加いただくことができました。本日のキーワードは「社会のしくみに巻き込まれていることに気づく」「半歩ずらしてみる」でした!
ご参加の皆様に少しずつでも個々の「お土産」をもって帰って頂けていますように・・・。

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